2007年12月09日
第13回 朱夏の会の公演は好評に終了
第13回 朱夏の会の公演は好評のうちに終演しました。

舞囃子  (あらすじ)

 河内の国高安の左衛門尉通俊の一子、俊徳丸は、讒言によって父に追放され、盲目の乞食となった今は、不自由な身体でよろめきながら歩くので<弱法師(よろぼし)>と呼ばれていた。今日は春の彼岸の中日。天王寺に現れた俊徳丸は、日想観(じっそうかん)のうちに難波津の風景を心眼に見て「満目青山(ばんぼくせいざん=あらゆる風景)は、心にあり」と悟った様子でしたが、往来の人に行き当たってまろび伏し、盲目の現実に打ちひしがれます。しかし、折から施行に来ていた父と再会し、ともに高安へ帰ってゆきます。

一調 土蜘蛛 (下掛宝生流×金春流)

 <一調(いっちょう)>は、謡一人(助吟が付く場合もあり)と打楽器一人で、一曲中の聴かせどころを演奏します。謡も囃子も相応の技量が要求される重い習い物になっています。今回は太鼓(金春流/三島元太郎)の一調で、謡がワキ方(下掛宝生流/宝生欣哉)という珍しい演目です。
 源頼光の家来獨武者(ひとりむしゃ)たちが、土蜘蛛の精の血痕をたどって突き止めた塚を暴き、抵抗する土蜘蛛の精を退治する、という終曲までの演奏します。

狂言 昆布売 (あらすじ)(和泉流)
 
 とある侍(シテ=野村万禄)が、北野の御手水(おちょうず)参りに出掛けますが、供の者が出払って誰もいないので、たまたま通りかかった昆布売(アト=吉住講)に無理やり太刀を持たせて太郎冠者などと呼び、主人のごとくふるまいます。初はへりくだっていた昆布売も、侍の横暴に腹が立ってきて・・・

能 邯鄲<かんたん>(観世流)(あらすじ)

 ここは唐土(もろこし=現在の中国)邯鄲(かんたん)の里。宿の女主(アイ=野村万禄)が大事そうに枕を運んで参ります。昔、仙術を使うお方が宿の礼にと置いて行かれたこの枕で、ほんの一睡まどろめば、夢によって『来し方行く末の悟り(過去未来の迷妄を去って真理を会得すること)』を開くことができると申します。これこそ〈邯鄲の枕〉という、世にも不思議な枕でございます。
 蜀(しょく)の国の青年 盧生(ろせい)は生きることに悩み、さりとて仏に帰依することもなく、ただぼんやりと日々を暮らしておりましたが、楚の国羊飛山に「尊き知識(善知識、仏道に教え導く人、導師)」のいらっしゃる由を聞き、「身の一大事(自分が悟りを得ること)」を尋ねたいと思い立ったのでございます。野を超え山を越え里を過ぎ、長い旅路の果てに、ようやく邯鄲の里まで来た盧生は、ここで宿を取ることにします。
 宿の女主は、盧生が一人旅なのを見て事情を訊くと邯鄲の枕をして一眠りするように勧め、その間に粟のご飯を炊いておこうと申します。盧生は、噂に聞いた邯鄲の枕で「身を知る門出の、世に試みに(わが身の程を知る旅立ちにあたって、一生を試し見る)夢の告げ」を受けることができるのは、天与の帰会に違いないと、寝台に置かれた枕を見つめ、「一村雨の雨宿り、日はまだ残る中宿に、仮寝の夢見るやと(通り雨の過ぎる間の雨宿りに、まだ日の暮れぬうちから宿を借りて、うたたねに夢を見ようと)」眠りに就いたのでした。・・・・


 毎年、朱夏の会にて 狂言やお能を見て最初の頃は何が何だか分からなかったけど、多少は何だか分かった様な雰囲気で見ることが出来る様になったと思います。年に一回だけど少しづつだけど面白みが出てきました。
 この頃は、若い年代の方が公演を見に来られる様になって来ました。若い方が少しでも興味を持って見て頂くのは嬉しいものです。
 来年は、主催の「白坂信行氏の独立20周年とのことで記念の会を開催されるとのことです。今からとても期待しております。